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2006年 01月 23日
小さいころはいわゆるカギッ子でした。
当時は釧路に住んでいたのですが、冬になると少ないながらも雪が積もります。住んでいた家の前は空き地になっていたので、積もったものと近所からの除雪のぶんで、かなりの量の雪がありました。情景から思うに小学校2年生か3年生の頃のことでしょう。 冬、放課後、家に帰ってくるとカバンを置いてその空き地で一人かまくらを作っていたことを思い出します。 最初は頭しか入らないような小さな穴ですが、スコップでこつこつと雪を掻き出していくうちに、右肩、左肩が入るようになります。水平に掘るのではなく、少し下に向かって掘り進めるのが私流です。そうすれば、完成したときには入口からスルリと穴の中に滑り落ちることができ、なんとなく動物の巣穴っぽくなって居心地が良いことを、ヨソのお兄ちゃんたちが作ったかまくらに(こっそり)忍び込んだときに学んでいたからです。奥に掘り進めるばかりではなく、横も上も下もまんべんなく広げていかなければいけません。とくに天井を掘るときは大変で、狭い穴の中で仰向けになって雪を削ると、当然顔に落ちてきて、その雪が解けたものと自分の鼻水がぐちゃぐちゃになってひどいことになります。それでも黙々と掘り続けます。できあがったかまくらは、幼い自分が体をまるめてスッポリ収まるくらいの小さくて狭いものでしたが、その狭いことの心地よさ、背中にじっとりと伝わってくる雪の冷たさ、ときどき自分がたてる鼻を啜る音以外は何も聞こえない静寂、入口から見上げるどんよりとした釧路の空。だんだん怖くなってきて外に出るともう辺りは薄暗く、慌ててスコップを持って家に入ったことを覚えています。 私がつくったかまくらはテレビや写真でみるような、何人もの人が一緒に入れるようなものではなく、やはりそれはどこか動物の巣穴のようで、今思えば「胎内がえり」と表現されるようなものかもしれません。と同時に、「空間」とか「居心地」とか、またはそれらを「つくる」こととか、そういうものを体感的に学んでいたのではないかなぁ、今やっていることと繋がっているんだなぁ、なんて都合よく思ったりもしています。 昨日のこと、 家に帰る途中のマンションの1階に小さな専有庭を利用したかまくらを作っている家があって、お父さんと思われる男の人が一人、中で身を縮めてキャンドルに火を灯していたのを歩道から目撃しました。小さいながらも良く出来たかまくらで、居心地も良さそうで、ちょっと忘れかけていた幼い頃のことを思い出しました。今の自分があの頃のように、「一人」で、「一つ」のことに、あんなに集中したり熱中したりできるだろうか、いや、できないんじゃないだろうか、それには自分を取り巻いている物事の要素が多すぎるのではないだろうか、とちょっと寂しくなりました。 それを寂しいと思う必要はまったくないんだろうけれど。 ところで、冬の遊びといえば、一番楽しかったのは「屋根のぼり」でした。それは小樽に引っ越してきてからの思い出だけど、すっぽりと街が雪に埋もれてしまう小樽の街は、民家の軒先かそれ以上に雪が積もっているのが当たり前で、私達はフリークライミングさながらに近所の屋根に登頂。普段は味わえない景色や、腰まですっぽり埋まる手つかずの雪原を堪能したものでした。当然ながら大人に見つかるとこっぴどく怒られるので、そういうスリルもあったわけですが、そういえば、近所の工場の屋根の上にいる私達を見つけた祖母が血相を変えて「降りなさーい!!!」とコブシを振り回していたのもオトナとなった今では当たり前の対応であって、さぞかし寿命を縮めてしまったことだろうと胸が痛みます。 いや、祖母は今でもピンピンと健在なのですが。
by mogu_ogu
| 2006-01-23 23:00
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